開祖 摩文仁賢和

1889年 

11月14日、沖縄県首里市で誕生。摩文仁家は旧琉球王国で大名であった大城賢雄の後裔にあたる。

1903年 

14歳の時、首里市に住む空手の大家「糸州安恒先生」に正式に入門。首里手を学ぶ。

1908年 

19歳の時、宮城長順の紹介で「東恩納寛量先生」に那覇手を学ぶ。 「東恩納先生は支那に行かれて、支那福建派の拳法を学んできた方で、今までの稽古とは非常に 異なっていた。(摩文仁賢和の言葉)」
中学卒業後兵役を経て警察官となり、在職中に琉球の古武道の棒術(新垣先生)、釵術(多和田真人先生)、添石流棒術(添石先生)などを習得。 1915年 

26歳の時、糸州・東恩納両先生から空手の免許を授かる
1916年 

27歳の時、自宅で道場を開設。近所在住の入門者、数名あり。1年を経たずに50名に達する。
1918年 

長男「賢栄」誕生。同年、自宅に「唐手研究会」設立。
1921年 

32歳の時、久邇宮・華頂宮両殿下が初めて来沖。その折、県学務課長の命で、師範学校において両殿下に空手演武を披露する。       

1924年 

35歳の時、巡査を退職。同年、沖縄県立水産学校・巡査教習所の空手指導教授として就任(嘱託)。
1925年 

36歳の時、秩父宮殿下来沖。御前に於いて空手演武を披露。同年、友人吉田安昌から「各流派合同で道場を設け、総合的研究を含めて教える」ことの提案があり、「資金も提供する」ということで、10月、沖縄で初めての空手道場「唐手研究会」が「沖縄空手研究倶楽部」に改組設立。指導は許田重発、宮城長順、本部朝勇、花城長茂、大城朝恕 知花朝信、中国拳法の呉賢貴も参加。主任教授に摩文仁賢和、宮城長順が 就任。          
1926年 

37歳の時、高松宮殿下の御前で空手演武の光栄を得た。同年夏、大日本武徳会沖縄県支部武道講習会の時、空手道講師を嘱託された。     

1927年 

38歳の時、柔道有段者の発表会に招かれて、講道館館長「嘉納治五郎先生」と「永岡秀一範士」が来沖。宮城長順と共に摩文仁賢和が、空手演武と解説を講じる。その時、演武を観戦した嘉納氏は「攻防自在」と賛辞し、空手を全国に広めるよう奨励された。     
1928年 

宮城長順、上阪。本土に第一歩を印し、立命館大学をはじめ、関西方面を中心に空手の普及に精進した。
1929年 

41歳の時の4月、各学校の空手師範を退職して、沖縄より大阪に居を移し、西成区鶴見橋通りに道場を開設し空手の普及に手をつける       
1931年 

摩文仁賢和、自らの空手に「摩文仁流」を名乗る。(糸東流の前称で私的な呼称)
1934年 

3月5日、「攻防自在護身術空手拳法」を発行。10月25日、「空手拳法十八の研究」を発行。摩文仁賢和、自前の空手道場「養秀館」を大阪にて開設。直弟子の育成に当たる。これを契機に糸州、東恩納両師の頭文字をとって「糸東流」を名乗り、開祖となる。       
1938年 

摩文仁賢和、中曽根源和氏と共著で、「攻防拳法空手道入門」を出版。
1939年 

3月、大日本武徳会本部へ「糸東流」登録。7月、摩文仁賢和、大日本武徳会より「空手術錬士」の称号を授与される。以来、糸東流拳法空手道として一派をなし、「大日本空手道会」を設立して空手道の師範育成   にあたる。    
1952年 

5月23日、摩文仁賢和糸東流開祖満63歳で生涯を閉じる。(翌年、宮城長順、さらに船越義珍、相次いで没す。)  

 

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